「キモい」「うじ虫」「調子に乗るな」
まずは、過激なタイトルを付けてしまったことを許していただきたい。
タイトルに並べた言葉は、ここ数日の間に私のメールボックスに入っていたメールの中に多く見られた単語で、俗に言う「ネガコメ」「アンチコメ」などと呼ばれるスパムコメントだ。
「キモい」と「うじ虫」は取り留めのない単語につき、今回は触れないこととする。
これを書き始めている現在、着地点は定まっていない。
なので、興味がなければ付き合う必要もない。
調子に乗るな
いや、乗ろう。例外なく、是が非でも。
調子など乗ってナンボ。もし乗り損ねてしまった場合、それは時に大きな損失を被る。もし、そのタイミングが確かに掴めているのであれば、そのチャンスを逃す手はない。
調子が乗らなければ、基本的に物事は円滑に進まない。ブログ、商売、人間関係etc. 調子に乗って悪いことなど基本的には無いのだ。
しかし、「調子に乗る」ことと「図に乗る」(つけあがる)ことを混同してはいけない。もちろん、これも場合によるが、後者に対して手放しに上昇的な思考を見出すのは至難の業に思える。
が、これも物は使いよう。上手く調子に乗れない時、ほんの少しだけ図に乗ってみる。すると、何か見えてくるかもしれない。
無論、それを表に出してはいけない。適切に使いこなせば優雅に羽ばたけるが、一歩履き違えたら水面で引っくり返ったまま足をバタつかせているアヒルだ。
あひる、可愛いけどね。
物事は多面的である
他愛ない誹謗中傷から得られれことなど何も無いと思っていたが、パターンが見えると面白い。
以前、こちらの【別館】で月に2、3件ほど頂いていた悪口には酷く落胆したものだが、2日で3桁を超える通知がくると、ある意味それは壮観ですらある。
【本館】に制定したプライバシーポリシーに従い、正規の方法で数人のIPアドレスを控えているが、特定の人物に絞り、あえて2日間ブラックリストには入れなかった。数分おきに鳴るパソコンの通知、これは手打ちなのだろうか‥?ブログの執筆やコメントの返信を行いながら、一つひとつ目を通す。「あ、『うじ虫』 13回目」「お、これは新しいワードだな‥」と。
すると、どうだろう‥翌日にも同じ文章が送られてくるではないか。
そこで気が付くのだ、「ああ、これはコピペなんだ」と。(我ながら遅い‥)
いくつかの過激で卑猥な言葉を定め、それを連ねる。あとは宛先を変更し、一人称を合わせれば済む話だ。
しかし、それを送りつけたところで、いったい何の得があるのだろう?
意識
「総じて加害者は被害者でもある」というのは、幼少期から頭の片隅もといド真ん中から消えない。常軌を逸したサイコパスは例外とするが‥いや、それも例外ではないかもしれない。すべての加害者は、被害者なのだ。
事の大小にかかわらず、物事には必ず原因がある。
ため息、瞳の動き、頬杖、貧乏ゆすり、マイクを持っている時に立つ小指‥挙げるとキリはないが、一見すると何気ない、なんの必要も無いような、あまり価値の見出せない行動は山ほどある。
基本、そこに意思は宿らない。が、無駄はない。 “その気” は無くとも、何かしらの理由と効能があるものだ。
ため息は蓄積された疲労を吐き出し、瞳の動きは精神の状態を表す。頬杖も貧乏ゆすりも、その人にとっては平常心を保つために必要な動作なのかもしれない。
もし、マイクやコップを持つ時に小指が立ってしまう人は、その小指を切り落とされた時、ふとマイクの持ち方が分からなくなるだろう。そこで初めて、やっと無意識の価値に気が付くのかもしれない。
私の小指も時々バランスを取るために立っているが、そこに意識は無い。なんと、いま正にタイピングしている瞬間は常に浮いていた。(いま気が付いた‥)
同情
話を戻す。
送信者が何を思って誹謗中傷を量産するのか、その意図を考えてみた。
真っ先に浮かんだのは、嫌悪対象に対して羨望(せんぼう)の感情を抱いており、自身の劣等と化学反応を起こすことで、羨望が嫉妬へと変わる。その結果、対象への攻撃に繋がってしまうのではないか‥と。これは別の機会で話すが、私は「嫉妬」という感情にポジティヴだ。
そこで、少し向き合ってみる‥
「なんて切ない感情なんだろう‥」
普段、大切な人以外に同情は向けない。使い方と相手を誤ると、それは一変して凶器になるからだ。以前の「がんばれ」と同様に、こちらも殺傷能力に優れている。なかなかの斬れ味だ。悪くない。
が、それは命を救うメスにも人斬り包丁にもなる。
そんな私だが、「調子に乗るな」に同情した。なんて寂しい感情が巣くっているのだろうかと‥いや、同調かもしれない。この人は、調子に “乗ることができていない” のだ。もはや、図に乗ることさえできていない。どれほどの孤独か、それが手に取るように伝わってくる。
痛い‥酷く喉が乾く‥
よく残念な人に向けられて放たれる「イタイ」ではない、単純に息苦しいのだ。
その瞬間、酷く落胆した。不特定多数のユーザーにアンチコメを飛ばずなど、それは加害以外の何者でもない、自分は一方的な被害者だ、などと高を括っていたが、その短絡的な解釈が利己的で、いかに自分主義な考え方をしていたのだと‥
ただただ、イタイ。
結論
だからと言って、アンチコメントの相手をしてやるつもりはない。
しかし、中には否定的でありながら、ちゃんと記事を “読んでから” 叩いてくれる人物もいる。その都度、私は丁寧に言葉を綴った。なんだったら相手の顔面を両手で鷲掴みにして、瞼をひん剥いてでも向き合うのだ。このような否定は誹謗中傷ではなく、大切な読者の意見として。
そういった価値のある否定的なコメントでなければ、例外なく迷惑甚だしき行為だ。しかし、不特定多数の一部として「taka :a」が送信者の中に根付いているのではれば、その人にとって「taka :a」という人物にも何かしらの必要価値が生まれているのかもしれない。好かれたくはない相手だが‥
ブログという媒体を経由して情報を発信している人は、何かしらの誹謗中傷を受けた経験が少なからずあるだろう。
まだブログを始めて間もない人やアクセス数が少ない人は経験がなく、他人事に思えるかもしれないが、安心してもらいたい。何かしらの情報を発信している限り、辛辣な内容の否定的なコメントは “いつか必ず” 来る。
もちろんコピぺアタッカーのネガコメは問答無用で削除しても差し障りないが、ちゃんと読んだ上で投稿された「意見」からは目を逸らさずに向き合ってほしい。(わざわざ返信しろとは言わない)
ブログに限った話ではないが、物事の本質を見直し、運営者としての人間性を高める判断材料として、クレームほど分かりやすく有り難いスパイスはないだろう。よほど画策しない限り、これは求めて得られるものではない。
不特定多数に向けられているようなアンチコメントを喰らった場合、それは無条件でネガティヴだが、安心してもらいたい。
その不特定多数の宛先に、 “あなた” は存在しないから。
(WordPressのスパムブロックシステムどうなってんだw)
e-mail:honjitsunoippai@yahoo.co.jp
© Posted by taka :a
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